89歳・伊東四朗が明かす東京大空襲、「焼夷弾がおじさんの頭に」今も忘れない名前
ベテラン俳優の伊東四朗さん(89)が、終戦から81年を経て、自身が8歳のときに体験した東京大空襲の記憶を週刊女性のインタビューで明かした。
「子どもだったから戦争中の記憶はあいまいな部分もある」と前置きしながらも、1945年3月10日の夜だけは鮮明に覚えているという。当時住んでいた東京・下谷区(現台東区)は、深夜からのB29による集中爆撃で一夜にして火の海となった。
エアコンなしで部屋を涼しくするならこの一台Airio Pro 家族6人で上野の山へ逃げた伊東さんは「あちこち燃えていて、何が飛んでくるかわからないから走ることもできない。足元にもいろいろなものが転がっていてね。人かもしれないけれど怖くて、見ないようにしていた」と当時の恐怖を振り返る。
警報が解除され、住民がそろそろと表に出たその時、悲劇は起きた。「たまたま電線に引っかかっていた焼夷弾が近所のおじさんの頭に落ちてきた。みんなが見ている前で、おじさんの頭はスパーンと半分吹き飛びました。今も、そのおじさんの名前は忘れていません」
空襲後、家族は母親の故郷・静岡県掛川に疎開。しかし、そこでの生活は決して楽ではなかった。母の弟夫婦の家に転がり込んだ形で「おばさんがいつも不機嫌で、子どもながらに肩身が狭かった」。地元の小学校では「“僕”という言い方をやめろ、気取りやがって」と上級生から呼び出しを受けたが、「私も気が強いほうだからね(笑)。従わずに自分を貫き通しましたよ」と、当時の気の強さを笑い交じりに語った。
終戦は、疎開から半年も経たないうちに訪れた。近所の石材店で玉音放送を聴いたが「電波が悪くて、何を言ってるかまったく聴き取れなかった」。むしろ終戦後のほうがつらかったと伊東さんは言う。「とにかく食べ物がありませんでした。米なんてないから、代用食のさつまいもを食べていました。といっても今売っているようなおいしいものとはまったく違う」。荒れ地でも育つ「沖縄100号」という品種は繊維がかたく筋も多く、水分や甘みはほとんどない。手のひらに乗る小さな芋を3つ、毎日弁当箱に入れて学校へ通った。「何かを腹いっぱい食べる、ってことがまずなかった。そんな状態が戦後も何年か続いた」。
13歳上の長兄は中国からの復員後、マラリアか壊血病で「決まった時間になるとものすごい震えがきて、高熱が出る。押し入れに閉じ込めて、家族みんながふすまを押さえつけなきゃならないほど震える。まるで地震のようでした」。そんな兄が掛川で結成したアマチュア劇団に「子役が足りないから」と引きずり出されたことが、伊東さんが役者を志すきっかけとなった。
戦争の記憶を風化させまいと、伊東さんは靖国神社の「みたままつり」に「かけぼんぼり」をたびたび奉納してきた。そこには《兄よ 父よ 祖父よ 今この國がおかしくなっています》(平成13年)や《あの頃、戦中だったのにみんな 穏やかだった。 今、親子が 学校が 世の中が まるで戦争してるみたいです。 お国の為に 父母の為に散った 兵隊さん達に 羞かしいです》(平成20年)といった、現代社会への危機感をにじませた詞が綴られている。
靖国神社への参拝を政治的に捉える風潮には「おかしな話ですよね。靖国には太平洋戦争だけではなく、そのずっと前の戦争の戦没者の魂も祀られている。どこの国にも戦争の犠牲者はいて、その魂を悼むのは当たり前のこと」と持論を述べた。
伊東さんは、この先も戦争はなくならないと考えている。「何千年もの歴史の中で、地球上で戦争が起こっていない期間はない。今だってそうでしょう。世界の国々は自分たちが住む地球を壊してしまうような核兵器をつくって、それを使う、使わないなんてずっと騒いでる。こんなバカな話、落語にもありませんよ」。
そして最後に、こう訴えた。「政治家のみなさんは、一度私と同じように、戦火の中を家族で手をつないで逃げ回る経験をしてみたらいい。そこまでしないと、世界は変わらない気がしますね」。
89歳の体に刻まれた壮絶な記憶。その言葉の重みは、世代を超えて胸に響く。
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